24と26

(千葉県・太田 智章)

わたしが野球を見始めたのは昭和56年。まだ6歳だったわたしは長嶋解任劇も江川事件も知らぬまま、漫然とテレビを見ていた。その年、巨人が優勝、そのまま日本一になり、私は巨人ファンになった。ちなみに私の弟も同じパターンで昭和60年、阪神に魅せられ、未だファンを続けている。

漫然と見始め、漫然とファンになったものの、次第、特定の選手に惹きつけられるようになる。中畑西本である。

子供心にまいまひとつ頼りなかった原よりも、そして次第に頼りなさを増していく江川よりも、この二人に惹かれていった。

24。中畑は「ゼッコチョー」の叫びが好きだった。燃える、ということがどういうことかを教えてくれたその姿勢が好きだった。頼れる兄貴、という言葉そのままの存在であり、憧れだったのである。

今も記憶に残るのは、89年の対近鉄日本シリーズ最終戦。代打であらわれてかっ飛ばしたホームラン。見ていたときは、まさかこれが彼の最後のホームランになるとは思いもよらなかった。引退の噂もこれで吹き飛んだ、と思った。

成績なんてどうでもいい、ただ中畑という選手が、いきいきと動く姿が見ていたかった。だからこそ、コーチとして帰ってきたときには、うれしかった。なまじな有望選手の入団よりもよほど(特に名は秘すが、清原のことである)。

26。西本は高々と足を上げたフォームがただただかっこよく、エース江川に対する負けじ魂で歯を食いしばって投げる姿が好きだった。

成績は江川よりも確かに劣っていた。けれども江川にはない何かがはっきりとは解らないままに惹かれ続けていた。

たぶんそれは、向かっていく姿勢、というものが子供目にもわかりやすかったためではないだろうか。いかにも涼しげな顔でスイスイ投げているよりも、歯を食いしばり、ぎらぎらとした目で相手を睨み付けながら投げる姿が、かっこよかったのだと思う。

更に持ち球がシュートというのも、向かっていくイメージとぴったりあっていた。

思い出の試合は、87年の対中日開幕戦。新4番に三冠王落合を迎えた恐竜打線に、そのうえ新監督は元巨人キラーの星野仙一。

どうなることか、はらはらしながら見ていたら、向かってくる中日打線に、真っ正面から向かっていく西本の姿があった。シュート、シュート、ひたすらシュート。特に落合に対してはすべての球がシュートだった。自分の最大の武器を引っ提げて、打てるものなら打ってみろと、投げ込む姿に私は震えた。
気がつけば9回完封。

この年結局は8勝8敗という不本意な成績だったが、いつか必ず復活するだろうと信じていた。

それだけに中日にトレードされたときには辛かった。この時はじめて、「球団ではなく選手を応援する」というのが、どういう事かわかった気がした。

移籍1年目、20勝して最高勝率・最多勝の2タイトルを獲得した時は複雑だったが、でもやはり嬉しかった。

 

彼ら二人がいなかったら、私は果たしてこうも長く野球を見続けたかわからない。その意味でも、私にとってのプロ野球は、この二人を抜きにしては考えられないのである。

だからつい、今でも巨人の24と26は背中を追いかけてしまう。

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