プロ野球自分紀行

(千葉県・ふさ千明)

1.エースナンバー29

エースの条件は色々ある。球が速い、とにかく負けない、重要な試合に勝つ、等々。そして無くてはならないのはかっこよさだと、私は思う。風格と言い換えてもいい。雰囲気を持っていなければどれだけ勝ち星を挙げても私にとってのエースではない。  

そして、私の出会った最初のエースが、村田兆治だった。  

私が仙台にいた頃、NHK教育テレビで復活劇を放映し、それをクラスみんなで見た。ロッテ優勝の原動力としての活躍、そして怪我、苦闘、ジョーブ博士との出会い、奥さんと二人三脚での復活。  

いわゆる舞台裏に触れたのはこれが初めてだった。そして大いに感動し、「パリーグはロッテを応援しよう」と心に固く誓うに至った。時に昭和59年冬。  

よく考えてみれば村田兆治が投げ、落合とリーが打った当時のロッテは今考えてもなかなか魅力のチームだ。  

幸い、流浪時代の名残から当時ロッテ戦がそこそこ仙台で組まれており、年に一回二回はその姿を生で見ることができた。  

当時の私にとって村田兆治という投手は生きている伝説だった。奇跡の復活を遂げ、 そして今なお投げつづけている姿を東北・仙台というプロ野球の稀薄な地帯にいながら目の当たりにできる幸運。  

まだ応援団がおとなしかったためか、ミットの音を覚えている。村田の音は高かった。ぱーん、と球場じゅうに響くいい音を立てていた。後、覚えていることは、なによりフォークが切れすぎてキャッチャーがよく後ろに逸らしたこと。  

村田兆治の凄さは、などと得々と語るのも気がひけるが、単に復活しただけではなく、平成元年には200勝を達成した上、2.50で最優秀防御率のタイトルまで取ったあたりにあるのではないか。復活後もエースとしてロッテ投手陣に君臨したことに。  

こういうピッチャーとリアルタイムで触れられた幸せを、私はようやくかみしめることができた。ONを知らない世代、というのが「遅れてきたファン」という重しになっていた私にとって、間にあった英雄という思いが強かった。  

無論、遅れてきたファンなどいない、ということは近年の野茂・イチロー・松井・松坂らの活躍を見れば明らかであろう。  

蛇足ながら。  

その昔、初代ファミリースタジアムなるゲームを遊ぶとき、本来のファン球団巨人よりもロッテ日ハム連合<フーズフーズ>を選んだのは村田兆治が使いたかったためだ。  

ストレートとフォークで次々三振を奪っていく姿はゲーム上とは言え本物を彷彿とさせ大いに楽しかった。

2.鉄仮面との出会い

私はわかりやすい選手が好きだった。西本・中畑しかり、川藤しかり、村田兆治しかり。その好みから、大きく外れていたのが、加藤初だった。淡々と投げつづける姿が、子供受けしなかった。面白味に欠ける、と思った。

そんなある日、テレビで巨人戦を見ていた。先発は加藤初。相手は広島だったと思うが、なにぶん昔のことなので、そのあたりはあやふやだ。

試合はクロマティあたりのタイムリーで先制したものの、1−0という大変心臓に悪い展開だった。いらいらしながら見ていたのを、今でもよく覚えている。

ランナーがでるたび、やられるんじゃないか、今度こそ逆転されるぞ、と、おっかなびっくりで、テレビの前から逃げ出したりもした。

しかしマウンドの加藤初は味方がエラーしようが盗塁されようが満塁になろうが、表情を変えない。ただ淡々と、淡々と投げ込んでいた。

そしてとうとう、九回を投げきってしまったのだ。マウンドから下りて山倉と握手したとき、ようやく見せたニコッと笑った笑顔が、妙にかっこよかった。「我慢」という言葉の意味とその価値を教えてもらったような気がした。

以来、加藤初は好きな選手になった。「えー、つまんねぇよ」と言われるたび「そこがかっこいいんだよ」と反論したが、大概聞き入れられなかった。当然だろう。

一度だけ、球場で先発加藤初の試合を見ることができた。1988年4月24日の巨人−大洋戦、東京ドーム。その日はローテーションから言って槙原が先発だと誰もが思っていたが、王監督曰く「相性が良かった」ということで久々の先発となった。

当時すでに選手生活も晩年に入っており、思い出の通りの完封と言うわけにはいかなかった。ストレートは140kmに届かず、特に決め球の変化球もない。武器は今まで培った経験だけ。

結果、4回1/3を投げて4失点。敗戦投手。仕方のないことではあるが、味方打線が11残塁という何とも苛立たしい記録を作ってしまい、打線の援護があれば立ち直ったかも知れないのに、という悔いは残った。

ちなみにこの日巨人の2得点は原辰徳(現コーチ)のソロ2本によるもので、ひねくれた私はこれを「ソロは打ててもチャンスで打てない」と受けとり、その印象が心に強く刻まれてしまった。

できればあの笑顔が、もう一度見たかった。あの、「ああ、嬉しいんだな」とわかる、素晴らしい笑顔を。岩本(

日ハム)や佐伯(横浜)のようなアピール上手も好きだし、高橋智(ヤクルト)やイチロー(オリックス)のような結果で答えるタイプも好きだ。それは、どちらもがプロだからだと思う。プロのみが持つかっこよさをにじませている選手が、私は好きだ。

そしてそのかっこよさに気づかせてくれた加藤初は、私にとって恩人である。

 3.祖父の話

 「千明には悪いが、僕は巨人が嫌いなんだ

祖父と珍しく野球の話になったとき、ファン球団をたずねるとこう言われた。聞いてみると、もと巨人ファンであるという。 「最初に応援したのはスタルヒンだ」

旅順中学校出身の祖父は、現地でしばしば見かけた白系ロシア人の投手ということで興味を持ち、気がつけば今で言うファンになっていたのだとか。

「球が速かった。とにかく、目にもとまらんとはあのことだった」

目を細めて往時を語ってくれた。しかし急に口調が変わる。 「戦争が終わってスタルヒンは球団を転々とし、いよいよ引退となったとき、巨人でただでいいから働きたいと申し出た。しかし巨人はすげなく断った」以来、巨人が嫌いになったんだ、と。  

そしてスタルヒンの不慮の事故死から一時野球に対する興味そのものを失ったそうだ。その祖父が再度野球に目を向けるようになったのは、思いがけぬきっかけからだった。  

利殖に興味を持っていた祖父は株に手を出した。証券会社に勧められ買ったのが捕鯨で大いに儲けていた大洋漁業であった。  

そして大洋ホエールズを応援するようになったのだと言う。あまりこういうパターンもあるまいと、私は思わず笑ってしまった。  

「その年、ホエールズが優勝したんだ」そう。昭和三十五年。三原魔術による日本一。それにより大洋漁業の株は大いに値を上げた。  

「しかしその後、全く優勝できんとは思わなかった」再度熱が冷めるかと思いきや、妙に情がうつり応援をつづけたのだと言う。松原、平松、ミヤーン、基、山下、遠藤、市川、ポンセ……。それまでほとんど野球を話題にしてこなかった祖父の口から、驚くほど多くの選手名が飛び出してくる。各々の選手について語る祖父は、実に楽しそうだった。  

ただ、ベイスターズになってからはなぜか見る気が薄れたという。当人も不思議がっていた。  

その祖父も、ベイスターズの97年快進撃及び98年優勝を見ぬまま世を去った。  それでよかったような気もする。だからまだ私は、祖父に優勝を報告していない。

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