「神宮最終戦」10年連続観戦記

(東京都・むさし)

「開幕戦」と「最終戦」――あなたはどちらが好きだろうか? 私は「最終戦」が好きである。それは、「もう今年は観れない」という気持ちが作用するからだろうか。もちろんそれもある。しかし「最終戦」にはそれ以上に、いろいろと見所があるからだ。

いつしか私は神宮球場のヤクルト最終戦を観に行くようになった。それが今年(2000年)でちょうど「10年連続」となった。そこでそれを記念してこの項を書いてみることにした。

ところで何故神宮なのか。それは地元・東京の球場だからである。それならば東京ドームもあるではないかと思われるかもしれない。しかし巨人戦だとまずチケットが取りにくい。また、それ以前にあまり観に行く気にもならない。じゃあ日本ハム戦はどうか。これも日程の関係上、いつも早い時期に最終戦を迎えてしまう。あまり「趣き」がない。

結果、神宮が去りゆくシーズンを偲ぶには最適ということになったのである。あるいは後述する新聞記事が隠れた動機づけになっているのかもしれない。

さて、まず最初に「神宮最終戦」に初めて行った時の話から。それは、1982年10月15日のヤクルト−中日戦だった。何故この試合を観に行ったのか。それはこの試合が優勝争いの真っ只中に行なわれたのにもかかわらず、関東地方ではテレビ中継はおろかラジオ中継も無かったからである。それならば、球場に観に行くしかあるまい。

そして翌日の新聞を見ると、「神宮の最終戦というのは、いつもは『通』の野球ファンが熱燗を飲みながら、シーズンを振り返るものだが云々〜」というようなことが書かれていた。これが前述の「新聞記事」である。

「そうか。神宮の最終戦というのは、そんな位置づけがなされているのか」――この時の印象が、のちの「神宮最終戦通い」につながったのであろう。

この年のセリーグは、中日と巨人が最後まで熾烈な優勝争いを展開していた。そしてこの日の時点で巨人はすでに全日程を終了。一方の中日は残り4試合。その残り4試合を3勝1敗以上で終えれば中日の優勝、それ以下ならば巨人の優勝というシチュエーションだった。

結果は3−2で中日の辛勝。試合後には、ライトスタンドのヤクルト応援団から「がんばれドラゴンズ」というエールが送られたのが印象深い。そしてその後の大洋3連戦も2勝1敗で乗り切り、中日は逆転優勝を決めた。

2度目の神宮最終戦は、7年後の1989年10月17日のヤクルト−中日戦。この時は最終戦サービスということで、外野席が500円だったという記憶がある。そしてさらにヤクルト帽のおまけ付き。ただしSサイズだったので被るとちょっとキツかったが。

試合のほうは、中日・西本聖が長島一茂に満塁走者一掃の二塁打を打たれて、単独最多勝を逃がした。なお、若松勉の引退試合でもあった。

さて、このあとは1991年からの10年連続観戦記である。

@1991年10月16日(水)  ヤクルト8−2広島
観衆:24000人、時間:2時間24分
○岡林12勝6敗 ●足立3勝7敗 本塁打:池山32号、秦16号、小早川7号

〜この年は、古田と落合が最後まで首位打者争いを展開した。前日にナゴヤ球場で行なわれた中日−広島ダブルヘッダーで、打率2位の落合(中日)が、まさかの6打数5安打(2ホームラン含)で打率.3395として、.3390の古田を抜いた。その話をヤクルトファンの友人に電話でしたら、「ウソだろ〜」と言われた。そこでその友人と神宮最終戦を観に行くことにした。

古田は第1打席で足立から三遊間を抜けるヒットを放ち、あっさりと初の首位打者を決めた。その後第3打席がまわってきたところで代打杉浦と交代。最終打率を.3398とした。

試合もヤクルトの快勝で、巨人を抜き単独3位を確定させた。試合後には選手達がライトスタンドの前まで行って万歳をして、まるで優勝を決めたみたいだった。今思えばこの時期のヤクルトはチームの上昇気運が一番高まっていた時で、翌年の14年ぶりの優勝を予感させるものがあった。

なお、9回表2死から尾花が引退登板。最後は正田を三振に仕留めた。

A1992年10月9日(金)    ヤクルト7−2広島
観衆:30000人、時間:3時間25分
○西村14勝13敗 ●佐々岡12勝8敗 本塁打:ハウエル36号、角(富)2号

〜この年は、阪神との優勝争いのさなかに最終戦が行なわれた。そのため「最終戦サービス」の割引はなかったように思う。ヤクルトの先発投手はルーキー石井一久。6回を3安打2失点と好投をする。

7回裏に、前回(1978年)の優勝を経験しているベテラン角(富)が、佐々岡から代打で決勝3ランホームランを放ち逆転勝ち。この日中日に敗れた阪神に2ゲーム差として優勝に王手をかけた。そして翌日、甲子園で胴上げを決めた。

※1992年10月26日(月)    西武2−1ヤクルト〜日本シリーズ
観衆:34101人、時間:4時間5分
○石井2勝0敗 ●岡林1勝2敗

そしてこの年は「正真正銘の最終戦」日本シリーズ第7戦も行った。第1戦と第7戦のチケットを前出のヤクルトファンの友人と一緒に買ってあったのだが、どうせ第7戦まではいかないだろうと思っていた。しかし逆転に次ぐ逆転、しかもサヨナラゲームが4回というもつれにもつれた展開で、よもやの最終戦決着となった。

雨天順延があったので、第7戦は月曜日。しかたがないので、当時会社員だった私は午前中だけ出社して最低限の仕事だけを終わらせ神宮へ。扱いは「年休」とした。

しかしそれまでのことをして行っただけの価値のある試合だった。ヤクルト岡林、西武石井の息詰まる投手戦で試合は終盤を迎えた。スコアはヤクルトが1点リード。しかしそこから西武の底力が発揮された。

7回表に西武は2死1、2塁のチャンスをつくるがバッターはピッチャーの石井。当然代打が出るものと思ったら、そのまま打席へ。これには驚いた。するとまさかの同点二塁打が飛び出し二度びっくり。

7回裏のヤクルト1死満塁では、代打杉浦の1、2塁間のゴロを辻が横っ飛びで好捕。本塁は間に合わないと思ったが辻は強引にバックホーム。間一髪で封殺した。このプレーに3度目の驚き。

そして迎えた延長10回表。1死3塁から秋山がセンターへ決勝の犠牲フライ。岡林のこのシリーズ3試合目の完投も報われず、西武は日本一を決めた。この時期の西武はとにかくソツがなかった。その西武相手にヤクルトはよく健闘したと言っていいだろう。

ちなみに日本シリーズ終了後に行なわれた東京六大学秋季リーグ戦・明治−法政も外野席で観戦。試合前には、スタンド下の通路で明治大学の選手とヤクルトの選手が行き交う姿が見られた。

B1993年10月18日(月)  ヤクルト5−2阪神
観衆:18000人、時間:2時間36分
○川崎10勝9敗 ●仲田3勝12敗 本塁打:桜井3号、荒井9号

〜3日前の広島戦で、ヤクルトはセリーグ2連覇を達成(その試合も観に行った)。そのためこの試合の印象は殆ど残っていない。憶えているのは、古田の台頭により出番の極端に減った中西がスタメン出場したことぐらいである。

C1994年10月9日(土)    ヤクルト2×−1横浜
観衆:28000人、時間:2時間58分
○高津8勝4敗 ●斎藤隆9勝12敗

〜勝ったほうが優勝という、かの中日−巨人「10.8最終決戦」の翌日に行なわれた試合。一方こちらは「負けたほうが最下位」という「裏・最終決戦」となった。さすが綱島理友氏の言うところの「裏・伝統戦」である(「ボクを野球場に連れてって」参照)。

試合は「最終決戦」らしく緊迫した展開となり、9回裏2死1、2塁から7番打者の城が、代わったばかりの盛田からサヨナラヒット。阪神と並んで同率4位となり、1979年の再現(優勝の翌年最下位)をかろうじて免れた。

なお、この試合を限りに引退する角富士雄が途中から8番サードに入っていたのだが、城がサヨナラ打を打ったために次打者の角まで打順がまわらなかったのが残念であった。

D1995年10月6日(金)    ヤクルト4−2広島
観衆:18000人、時間:3時間8分
○山部16勝7敗 ●山内14勝9敗 S加藤

〜3回表に広島・野村がシーズン30個目となる二盗を決め、「3割30本30盗塁」を達成。でも実は、このことはこの文章を書くために記録を調べたらわかったこと。すっかり記憶から抜け去っていました。2000年の金本の前にも「3・3・3」の達成の瞬間を見ていたんですな。

なお、この年のヤクルトは独走で悠々と優勝を決定。試合後にはペナント授与式と場内一周が行なわれた。

E1996年10月9(水)    横浜3−1ヤクルト
観衆:14000人、時間:3時間2分
○戸叶1勝5敗 ●田畑12勝12敗 S佐々木 本塁打:ローズ16号

〜この試合で引退する横浜・荒木が先発し、1回1/3を無失点。最後は元女房役の古田を三振に仕留めた。また金森が途中出場でファーストを守り2打数0安打。宮本(賢)が9回2死から登板。ともに現役最後の出場。試合後には荒木ととも花束を受け取った。

なお、横浜佐々木は29セーブポイント目をあげ佐々岡(広島)を突き放し、単独で最優秀救援投手を確定させた。

F1997年10月11日(土)  ヤクルト6−4広島
観衆:14000人、時間:3時間2分
○加藤5勝1敗 ●山内7勝11敗 S山部 本塁打:テータム13号

〜この年のヤクルトは独走で早々と9月中に優勝。そのためか、この試合の印象がまったく残っていない。記録を調べたところによると、先発の吉井が3回2/3を投げて3点を取られて防御率を2.99に落とし、大野(広島)の最優秀防御率(2.85)が確定したらしい。

G1998年10月9日(金)    ヤクルト5−2阪神
観衆:28000人、時間:2時間46分
○川崎17勝10敗 ●クリーク0勝4敗 本塁打:池山18号、桧山5号

〜この年は行けるかどうか微妙だった。というのは同じ日に行われる横浜−中日戦に優勝がかかっていたら、そちらをテレビで見るつもりだったからだ。横浜の38年ぶりの優勝というのはやはり、いちプロ野球ファンとして「リアルタイム」で見ておきたかったのだ。でも幸いに? 前日に優勝が決まったので、この日は心置きなく神宮に行くことが出来た。

ところで今日の試合はただ単なる最終戦というだけでなく、野村監督のヤクルトにおける最終ゲームでもあった。そのため入場する時に、先着2万名に配られるという「野村監督記念品」の下敷きをもらった。

試合のほうは、飯田の通算1000本安打となるタイムリーヒットなどがあり、ヤクルトの勝利。川崎は完投で17勝目をあげ、単独最多勝を決めた。8回裏には引退する大野雄次が代打で登場。9回表の守備にもついた。

試合後には異例の「野村監督退団セレモニー」が行なわれた。まず9年間の軌跡がスクリーンに映し出される。胴上げのシーンでは球場に歓声が起きた。そして池山、伊東両選手からの花束贈呈が終わり、野村監督の挨拶。

第一声は「阪神ファンの方々には申し訳ないが、今日はすごく勝ちたかったんです」であった。そして「日本の野球は巨人中心だが、その巨人およびに長嶋監督に対してライバル心を燃やしてやってきました」と言うと、レフトスタンドの阪神ファンからも大きな歓声があかった。

「ヤクルトはまだ未完成のチームだがいつまでも院政を敷くわけにはいかない」という発言もした。この辺にまだ監督への未練が感じられた。観客からは胴上げの声もあがったが、「胴上げは優勝した時にするもの」という考えからか行われず、最後にライトスタンドへ挨拶をして静かにグラウンドから去った。

H1999年10月14日(木)    ヤクルト5−1横浜
観衆:6000人、時間:2時間4分
○川崎7勝11敗 ●谷口0勝1敗 本塁打:佐伯10号

〜この日は球場に着くとすごい雨だった。18時20分プレイボール予定だったが、丁度来日していたベネズエラ大統領の始球式のみがとりあえず行なわれた。そのためグラウンドにはたくさんの警備がいた。大統領はヤクルトのスタジャンを着て登板。サウスポーからペタジーニに対して外角へ変化球を投じた。

結局試合は30分遅れで開始。この試合を最後に引退する辻が「1番セカンド」でスタメン出場。結果は3打数0安打だった。試合後には花束贈呈、そしてあいさつと胴上げが行なわれた。

なお、7回表に横浜・ローズがセリーグタイ記録となるシーズン191安打を達成した。

I2000年10月11日(水)    広島2−1ヤクルト
観衆:16000人、時間:2時間25分
○横山1勝0敗 ●石井弘4勝3敗 本塁打:金本30号

〜この試合を最後に引退をする岡林が先発。1回を投げ3者凡退に抑えた。ライトスタンドには「剛腕力投岡林洋一 夢と感動をありがとう」、「神宮の立役者 岡林洋一」という横断幕が掲げられていた。

ところで岡林の10年間の成績を見ると、通算53勝のうち前半の5年間で50勝をあげているが、後半の5年間ではわずか3勝に終わっている。それだけ前半の酷使が祟ったのだろう。

2回表からは防御率1位を狙う石井(一)が登板し、1回1/3を投げたところで降板。防御率を2.606として、中日・山本昌の2.610を上回りタイトルを奪い取った。

4回表には、「3割30本30盗塁」を狙うためにトップバッターに入っていた広島・金本が、ライトスタンドへ同点のソロホームラン。最終戦で無事「3・3・3」を達成した。

8回表には、やはりこの試合で引退をする馬場がサードへ。試合後には岡林、馬場両選手に花束贈呈、そしてあいさつ。さらには岡林はマウンドで、馬場はサードベース付近でサードベースを持ちながら胴上げが行なわれた。

こうやって書いてみると、この10年間で神宮の最終戦はヤクルトの8勝2敗という好成績であることに気付いた。これはやはり「地元最終戦」ということで、選手も特別に気合を入れて闘っているからなのだろうか。あるいはその試合を最後に引退する選手がいる場合には、勝利で花道を飾ってあげたいと思うからなのかもしれない。

戻る

inserted by FC2 system