『監督』      

 (海老沢泰久著/文春文庫・540円)

(千葉県・ふさ千明)

 事実を基にしたフィクション、というと、野球四コマがそうだ。実在の選手をモデルに、その持つイメージを楽しくふくらませてギャグにしている。そしてこの『監督』という作品も、ギャグとシリアスの違いこそあれ、そうなのだ。であるから、野球四コマを読んできた人に特に勧めたいのである。  

ペナントレースを振り返るという作業は楽しいものなのだが、系統立ててやろうとなると、なにがしかの手がかりがいる。この本のおかげで私は、見たこともない昭和53年のペナントを鮮明に頭に描くことができる。

 無論、フィクションであるから、事実そのものではない。細かいところが色々脚色を受けたりしてよりドラマチックな演出を加えられたりしている。ではあるが他五球団はチーム名及び選手名がそのまま使われているので、往時を知る人は懐かしむこともできるし、何より得難い往時の空気が感じられる。それこそがこの作品を高く評価する所以である。

 物語はヤクルトスワローズをモデルにしたエンゼルスで、コーチ広岡達朗が監督になるところからはじまる。そしてセリーグ優勝に向けて全知全霊を傾けて長嶋監督率いるジャイアンツに挑んでいく。  

ご存じない方のために時代背景をいささか解説させていただくと、当時はV9の余熱冷めやらず、同じジャイアンツという名前でも今とではその重みが違った。長嶋監督という名前も、またしかりである。  

ヤクルト自体は優勝未経験のチームであり、野村監督時代とは比べものにならない。いわゆる『ドンケツスワローズ』であった。  

万年Bクラスチームの倦怠。その引き締めと建て直し。99年現在で言えば野村阪神がそれに当たろうか。弱いチームが強くなっていくというのはそれ自体、十分なドラマである。ファン球団であるなしに関わらず惹きつけられるものを持っている。  

超人的な能力の選手が入団して魔球や秘打で活躍して強くなるのではない。個々の選手が今までやってこなかったことに挑戦し、能力を出し切ることによって強くなっていく。好き勝手な野球から勝つための野球へ。  

退屈の代名詞であったはずの管理野球なのだが、一致団結して勝つために全力を尽くすというスタンスで描かれると、充分ドラマであり、楽しい。

 この作品を読む気になった方の中で、知っているのは今の選手のみ、という人は多少の下調べをおすすめしたい。いささか面倒に思われるかもしれないが、料理をより美味しく食べるために調味料を買い出しに行くようなものだと思って、ぜひやってみていただきたい。さしたる苦痛にはならないと思う。  

知らなくとも楽しむことはできるのだが、現在コーチ・監督を務める世代(例:星野仙一、小林繁、加藤初など)の現役時代をたどることにより「星野監督は昔からこうだったのか」などと考えるのもまた一興ではないかと思うのである。決して今の野球を見る上での無駄足にはならないはず。

最後にこの作品の魅力を象徴したエピソードを一つ紹介したい。  

この『監督』を持ち込まれた新潮社の出版部長は野球を知らない人であったという。その人をして「500枚を越す生原稿を一晩で読んでしまった。面白くて途中でやめることができなかった」と言わしめている。私も同じだった。

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