もし園川が…

(京都府・ふさ千明)

1.もし園川が巨人に入団していたら

園川一美は昭和60年秋のドラフト会議で2位指名を受け巨人に入団した。1位指名が密約説の流れる桑田だったために、編成部が混乱し交渉そのものが後回しにされるという、後のプロ野球人生を暗示するようなスタートとなった。園川も1位指名確実視されていたのだが、1位が桑田であれば納得するしかないというフィーバーぶりであった。

与えられた背番号は28。新浦以来空き番だったということもあるが、左腕の28というと、ちょうど2年前に引退した江夏豊を連想させたため、期待の大きさと受け取るものも多かった。また、長らく左腕日照りであった巨人には待望の左腕エース候補としてもてはやされた。

1年目は主にファームで過ごしたが、62年の優勝時には1軍に抜擢される。しかし、同期入団の桑田がエースとして活躍するのに対して、中継ぎメインの起用で先発はわずか1。しかもシーズン最終戦。この誰もが注目しない場面で、なんと初先発初完投をやってしまう。ストレートとカーブのコンビネーションでバッターを打ち取るタイプの彼は、それを遺憾なく発揮してヤクルト打線を6安打2失点に抑え日本シリーズの秘密兵器として名乗りを上げることになった。

期待されたものの結局王監督の「日本シリーズの先発には格が必要」とのこだわりで中継ぎや敗戦処理での登板になったが、当人は飄々と投げていた。「しかたない。俺だってそう思うもの」とは、本人のコメントである。

翌63年。先発ローテーションの一員に加わったが、当時のセントラルは落合、広沢、池山、ポンセら右の強打者ぞろいであり、苦戦を強いられる。広島戦で初完封を成し遂げたとおもったらヤクルト戦で4回6失点KOなど、投げてみるまで分からない不安定さがあった。特にヤクルトと中日は苦手であり、「あのとき園川が勝っていれば」とファンのぼやきの種にもなった。

結局8月に中日戦での奇襲先発に失敗して以来2軍落ちし、シーズン終了まで後楽園のマウンドに姿を見せることはなかった。この年6勝10敗。このまま消え去るかと思われたが、藤田監督の就任によって運命は一変する。それまでカーブとスライダーが主な変化球であったところにチェンジアップを伝授され、またキャッチャーも「とにかく外角」の山倉から「色々やってみよう」の中尾に変わったことも幸いして、斎藤、桑田、槙原に続く第4の先発投手として一年間ローテーション入りする。

前監督のように「向こうが右だと思っているところにぶつけよう」的な采配もなくなり、12勝8敗とチームの優勝に大きく貢献した。このシーズンの圧巻は、なんと言ってもトレードで中日入りした西本との投げあいであった。ベテラン西本が足を高くかかげる渾身のフォームでシュートを投げ込めば、26歳の園川が、あのなんとも言えないゆっくりとしたフォームで飄々とチェンジアップを放る。対極の投げ合いは1−1の引き分けに終わったが、園川の「勝っても負けても悪役だからなぁ」とのコメントがひときわ目を引いた。

翌年、監督推薦でオールスターに出場、2戦目で1イニングを無事投げきりお役御免のはずだったが、3戦目、大乱戦となって野手が足らなくなり、9回裏に中山(当時大洋)の代打として登場。見事犠牲フライを放ってMVPになる。お立ち台では「打つのは仕事じゃないんで」と発言し、「○○は仕事じゃないんで」が一部で流行する。

シーズン成績も生涯最高の14勝をマーク。日本シリーズではチームが4連敗、本人も秋山・清原・デストラーデに3連発を食らうなどいいところがなかったが「別に俺一人で打たれたわけじゃないし」と相変わらずであった。

そして平成3年、本人はいつも通りに投げている。しかしこの年あたりから打線の降下に伴って勝てなくなる。いいときはいいが悪いときは止めどなく打たれてしまう園川は、この打線の降下に影響されて勝ち星を落としていく。10勝→8勝→6勝と減少。特に長嶋監督の就任以後は先発・中継ぎ・リリーフ・敗戦処理と目まぐるしく用いられるようになる。それでも平成6年の優勝・日本一の際はシーズン4勝ながら、チームの下支え役としての評価を受ける。

以降は中継ぎ人生を歩むが、監督の“ひらめき”によって年に2、3度先発にも起用される。投げれば往時と変わらぬピッチングを見せるが、チーム事情から黙々と中継ぎに専念し勝ち星もつかないが負けも少ない、と数字的には目立たぬ存在になっていくが、もともと玄人好みの投手であり一部に固定ファンが存在し、支持された。

そして平成10年、小野・岡島・柏田ら若手左腕に後を託してユニフォームを脱いだ。シーズン最終戦の引退セレモニーでは「今まで応援ありがとうございました。これからもチームをよろしくお願いいたします」とだけ語り、あの飄々としたピッチングスタイルそのままにマウンドを去っていった。

園川一美、時に35歳。「まだやれた」と言う声を背に、彼は今日もよみうりランドのジャイアンツ球場でブルペンに立ち、後輩達の背を見つめている。左のエースと言うだけでは括れなかった彼の抜けた穴は、あれから5年以上経ってもまだ埋まらぬままである。

 

2.もし園川がヤクルトに入団していたら

園川一美は昭和60年秋のドラフト会議で2位指名を受けヤクルトに入団した。1位指名は社会人ナンバーワンと名高かった伊東昭光(本田技研)だったが交渉の席上、開口一番「なんで僕が一位じゃないんですか?」とスカ ウトに詰め寄ったという。そこで「うちは園川君も欲しかった。しかし、伊東君がそれ以上に欲しかった。それだけだよ」と諭されるとあっさり引き下がった。

彼に与えられた背番号は21。この年スワローズは13、15、16、17、18と空いていたが(18は1位の伊東昭光が着用)、そこであえてあの756号被弾男鈴木康二朗のナンバーというのがその後の園川のポジションをなんとなく位置付けてしまったように思うのは結果論に過ぎるだろうか。

1986年はちょうどスワローズ投手陣が世代交代の時期に来ていたこともあり、1年目から28試合に起用される。しかし、性格が江戸っ子の土橋監督に気に入られず、主に中継ぎ・敗戦処理での便利使いに終始したが、それでも3勝5敗はたいしたものであった。

また、この年引退した山本浩二の引退試合に登板し、最後のホームランを浴びる。試合後、 「どうだい、536本目を打たれた感想は?」という問いに対し「いや、別に。僕一人で536本打たれたわけじゃありませんからね」と返し記者連を黙らせた。

翌年関根監督が就任すると「あの子はねぇ、面白いですよ、ええ」と 高評価を受け先発に回る。巨人戦には滅法強く6戦に登板して4勝を上げた。しかし他球団相手ではなぜか威力を発揮せず通年では8勝10敗。スワローズでは浅野以来となる巨人キラー扱いには「別に巨人戦だろうとそうでなかろうと一緒にやってますよ」とのみ答えた。

87年は開幕戦が巨人戦ということもあり伊東・尾花・荒木を押し退けて開幕投手に指名される。ずらりと並んだ左打線を見事抑えるが五回表終了0−0で降雨コールド。せめて試合が成立していれば、と惜しまれる幻の開幕投手となった。

88年、長嶋一茂のスワローズ入団や東京ドーム開業と話題に花咲く中、園川にとっては、長嶋一茂の「神宮より広いからホームラン出にくそうですね」発言に「お前はまず神宮で打て」と突っ込んだことくらいしか逸話がない。

あえて挙げるならば、この年同期の伊東昭光が最多勝のタイトルを取ったが、その18勝目の試合、先発したのは園川だった。4イニング無失点でバトンタッチし、後を伊東が受けて3イニングを投げ、勝利投手に。「同期の友情リレー」とサンケイスポーツではそこそこ扱われた。しかし園川は嬉しそうでも悔しそうでもなく淡々としていた。これを「思うところを内に秘めたポーカーフェイス」と誤解する向きも多かった。

またこのころ、池山・広沢のいわゆるイケトラコンビ台頭でチーム全体もテレビ露出が増える中、巨人キラーで名を売ったことがある園川にも出演依頼が来るものの、バラエティ番組には余りに不向きなキャラクターであったために壁の花となることが多かった。

89年。チームとしては、前年の55試合登板という無理がたたってエース伊東が調子を崩したため先発陣は頭数不足になるも、なぜか園川は投球回数130回2/3という微妙な起用に留まった。 それでも勝利数はようやく二桁の壁を突破する。10勝13敗。

90年、野村監督が就任。野村監督をして「よその誰よりまずこいつが分からん」 と嘆かれながら、左不足のチーム事情から先発三番手に抜擢される。 御存じ「ID野球」がスローガンとなるが、先発即炎上の試合などでは「ID(いきなりダメ)園川」などとスポーツ紙に揶揄された。

91年、チームは11年ぶりのAクラスに輝き西村、川崎、岡林らが軒並み二桁、広沢が打点王、古田が首位打者と華々しく話題をさらう中、7勝11敗で防御率3.96。打線や野村采配の恩恵を受けているのかいないのかさっぱり判別できなかった。さらに、この年特筆すべきこととしては、オフにトレード話が持ち上がったことだろう。巨人からは井上+四條、西武からは大久保+金銭の名があがり、新聞辞令が大分にぎやかだったが、結局壊れた。理由は現在も不明。

92年、チームは14年ぶりの優勝に輝く。天王山大詰めの阪神戦で八木に幻のホームランを打たれたりしながら先発に中継ぎに、時に敗戦処理にと大車輪。7勝5敗と優勝に貢献。しかし日本シリーズでは森西武に通用せず、めった打ちを食らう。加えて第5戦では当て馬に使用され、西武球場に「四番DH園川」のコールが響いた。

しかし、このDH起用が波瀾を呼ぶのである。ルール上DHは最低一回は打席に立たなければいけない。スタメン交換の際に隣の広沢と守備位置を間違えたのだという説からノムさんのルール勘違いという説、さらには相手の動揺を誘うための策略説まで諸説紛々巻き起こったが、そのあとの出来事からすればそれも所詮前振りに過ぎなかった。

この異例の事態に動揺したのか、先発の渡辺久信大乱調。立ち上がりヒットとフォアボールでノーアウト満塁のピンチを作って園川を迎えてしまうのであった。

一回表、無死満塁。バッター園川。異様な雰囲気の中、マウンドに集まる西武内野陣。レフトスタンドからは「ホームランホームラン園川」の無茶な要求大合唱。伊東は後に語る。「あのときはスクイズしか頭になかったですね。野村さんの采配からして必ず何か仕掛けてくると、そればっかりで頭がいっぱいでした」 と。

にやりと笑って打席に立つ園川に、スクイズ外しの外角球が1球、2球。気が付けばカウントノースリー。しまったと思ったときにはもう遅かった。押し出しのフォアボールでスワローズ1点先制。東京音頭の大合唱の中、園川は代走秦に代わってベンチへ引っ込む。このリードを保ったままスワローズが勝利したためこの試合勝利打点は園川についた。試合後、「スクイズ? 別に」とだけ答えた園川だが、満場の観客を前にお立ち台でのポーカーフェイスはある種園川の真骨頂であった。

93年、チームは連覇し、園川も日本シリーズに7戦中5戦登板。両チーム通じて最多イニング数を投げるが勝ち負けなしという空前の記録を作る。また、今回はピッチャーとして打席に立つ機会に恵まれたが、見逃し三振に終わっている。

94年、巨人キラーぶりが復活するが優勝はさらわれる。終盤、中日とのデッドヒートを繰り広げる巨人に完封勝利し、次の中日戦でノックアウトを食らうなどして巨人ファンから怒りをぶつけられることもしばしばだった。

95年。2度目の開幕投手に。試合前「今度は東京ドームだから降雨コールドはないですね」の突っ込みに苦笑い。終盤、新外国人シェーン・マックと松井秀喜に一発を浴びたが、この2失点のみ。9回を投げきったが味方も好投する斎藤雅樹から点が取れず、敗戦投手に。「今回も雨天コールドだったら負けなくてすんだんですけどね」 との記者の質問に「しょうがない。俺が開幕で投げてること自体がおかしいんだから」とコメントしている。

このシーズンから先発は谷間のみで、中継ぎに回ることが多くなった。投球回数は規定に届かなかったもののシーズン42試合登板は生涯最多となる。また、日本シリーズ前のスポースニュースのコーナーで古田が「唯一配球を任せるピッチャー」として名をあげ、一部で話題となる。

96年。正確には95年オフ。巨人長嶋監督が自らのレフティーズコレクションに園川を加えたがり、今度はトレード話ではなくFA騒動となる。一躍渦中の人となったが、本人は宣言をせずに残留。「巨人? 別に」の一言が、この件で残されている彼の唯一のオフィシャルコメントである。代わりに河野がファイターズからFAで巨人入りし、長嶋監督の傷心を慰めることとなった。

96年のシーズン、別に際立って変化はないものの、メイクミラクルを掲げて逆転優勝を目指す長嶋ジャイアンツにしばしば冷水を浴びせるようなピッチングを行なって、「だからあのとき園川をとっていれば」と長嶋監督に臍をかませたという逸話がまことしやかに伝わっているがその真偽は定かではない。ただ、その経緯を意識して、野村監督はこれ見よがしに園川を巨人戦で登板させ、野村長嶋対立の歴史に地味な一コマを添えることともなった。

97年、選手生命晩年期に入り、ナイターでマシンガン打線にぼこぼこにされながら、翌日戸田で昼寝する姿などもしばしばみられるようになった。そして98年、野村監督の退陣と同じ年に、ひっそりと現役を去った。華々しい野村演説の影で、ライトスタンドから流れる東京音頭に送られるその姿は、決して一流とはいえないものの、確かに一時代を支えたプロのものだった。

「家族主義」を掲げるヤクルトは彼を手放さず、球団職員として迎え入れた。現在でも、インタビューを受ける若松監督の横で報道陣を仕切っている園川の姿を見ることができる。「広報としてはアレだ。明らかにミスキャスト」との声をその背に受けながら。

戻る

inserted by FC2 system