わたしが大原徹也選手のファンになったきっかけ

(山形県・すがぬまみつあき)

「鶴岡さん、この選手ご存知ですか?」

「…いやあ、知りませんねえ…。」

1979年4月、新生・西武がNHKテレビの画面を通じて全国に初お目見えした際(たしか川崎球場でのロッテ戦)のアナウンサー氏と鶴岡一人解説者の会話、これがファンになったきっかけである。

大原徹也内野手、背番号27。

鶴岡氏も知らなかったのも無理はなく、大阪福島商(現・履正社高)から前身の太平洋クラブにドラフト外で入団、4年目で初めて一軍入りしてたのだが、ファームでは結構目を掛けられていたようで、初単独開催のジュニアオールスターゲームに選出されている。ただ、選出時の打率が1割台だったというのがよく分からないが。

一軍入りも基満男(→大洋)や真弓明信(→阪神)がいなくなり、ロッテから来た山崎裕之もケガで出遅れていた事情により、近鉄から拾った益川満育よりはマシということで止むを得ずといえた。ショートに抜擢された大原だったが、この後しばらく「ザル内野」の一翼を担うことになる。西武球場のコケラ落としでも西武は7個のエラーを記録していたが、もちろん彼のも含まれている。

開幕12連敗に始まり最下位を独走する戦犯のように雑誌・新聞ではよく取り上げられ、「ホームラン」という本にはバレーボールでキャッチボールするコラージュまで登場した。また、守備の不安定ぶりを揶揄する「大原ハラハラ」は関係者の間で流行となり、ニッポン放送の深沢アナあたりも実況でよくしゃべっていた。

のちに行沢久隆、そしてミスター・レオ$ホ毛宏典の入団でファームに逆戻りとなるが、1982年7月イースタンリーグのトーナメント大会が山形で開催されることになり、私は「ナマ大原」を見られると思っていたら、石毛がケガしたためか一軍に上がっていた(主に代走だった)というタイミングの悪さに私は落ち込んだ。

1982年、背番号が「5」に昇格(て言うかルー伊東勤に捕手らしい「27」を与えることになったため)も、程なく古沢憲司投手とともに広島にトレード、そして近鉄でプロ野球選手として生き続けていた。

この頃は私個人、プロ野球から離れていたので正直あまり記憶がないので、「週刊ベースボール」の選手名鑑をひっくり返してみると、近鉄では岡本監督から「ガッツマン」と評価され、谷真一とショートを争ってはいたが殆ど代走、守備要員(!)だったようだ。

1987年に11年間の選手生活を終えたが、大原がプロ野球選手だった証しとも言えるのがタカラが出していたプロ野球カードゲーム用の選手カードである(全3種。さすがにカルビーのおまけカード化はされていない)。これらは最近になってカードショップで求めたのだが、一挙公開して読者の判断を仰ぐこととする。

現在、大原氏はプロ野球OBスーパースター(!!)の試合に駆り出されたりしており、1999年、青森で催された際には近鉄のユニフォーム姿だった。

いつかスーパースター大原℃≠フ経営する大阪府藤井寺市のスナック「塁」に訪れてみたいものだ。

大原徹也

1957年7月24日生/右投右打
出身/兵庫県宝塚市
球歴/1976年〜81年・太平洋(クラウン・西武)、82〜83年・広島、84〜87年・近鉄
生涯成績/291試合、419打数79安打、8本塁打、23打点、5盗塁、打率.189

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