最後のオリオン 園川一美

(千葉県・ふさ千明)

ひと昔以上まえのこと。ロッテがオリオンズだった頃。私は先発3本柱をオリオンの三ツ星に例えるということをしていた。子供の他愛ないお遊びと思っていただいて差し支えない。その3人が全滅すると「黒い三連星」などと言って友人たちと笑っていたりもした。

例えば。村田・荘・園川。小川・荘・園川。小川・牛島・園川。三番手にはいつも園川がいた。村田が消え、荘が消え、小川も牛島もいなくなっても、園川はマウンドにいた。黙々と投げていた。

思えば不思議だった。ロッテがオリオンズという名でなくなっても、園川は相変わらずだった。打たれるときは普通だったら立ち直れないくらいに打たれ、抑えるときは「こんなピッチャーがいたのか!」と我が目を疑うくらいに抑える。

初め、新聞のスポーツ欄で眼にしたときは驚いた。「誰、これ」巨人一辺倒だったガキには「知らん選手が完封しとるよ」程度の認識だったものの、回を重ねるごとに意識して見るようになった。

今回、これを書くにあたっていささか園川について調べてみた。すると、出てくるのである。園川一美という投手を表すエピソードの数々が。いくつか紹介したい。

話は大学時代にさかのぼる。日体大のエースとして君臨していた園川は、将来高校野球の監督になって甲子園を目指す夢を抱いていたそうである。しかし教育実習と日米大学野球の時期が重なっており、彼は野球を選んだ。

その後、ドラフトでは一位指名を確実視されていたものの、二位指名。しかも一位が高校生の石田雅彦であったということもあり、園川は怒りもあらわにこう言った。「なんでこの僕が二位指名なんですか?!」と。

そしてノンプロのプリンスホテル行きを決意するのだが、ロッテ側から一向に連絡が無く、断るに断れず、困惑する。ロッテ側は「気持ちを静めてもらおうとした」らしいのだが。

結局都合12日間放っておかれた。そしてようやく初交渉となるのだが、この時スカウトとの待ち合わせ場所が、「渋谷駅ハチ公前」。ロッテ側の真意は謎であるが、寡聞にしてドラフト交渉の待ち合わせで渋谷のハチ公前というのは初耳である。

この時、当時ロッテの球団代表が直々に現れ、しかも契約金を石田より高くすると言うことで園川はあっさり折れた。かくして、園川の14年に及ぶプロ人生が始まった。

初先発は無四球完投で飾っている。86年のシーズン終了も押し迫った10月15日。対南海24回戦。しかし、当然というか、特に記事の扱いがあったとは聞いていないし、調べたところさしたる記事も載っていない。明らかな消化試合であった上、「ミスターロッテ」有藤が引退表明をした日でもあったため、ただでさえ少ないロッテ用のスペースは園川のためには用意されなかったのだ。

初完封は、翌87年9月8日。対日本ハム19回戦。その前の試合で13失点完投(自責点は7)という大記録を成し遂げた直後の登板時。2試合の平均失点6.5である。既にこの時後の片鱗を見せたと言ったら結果論にすぎるかも知れない。

以後、この落差の激しさこそが、園川一美という投手の特徴となった。だけでなく、出来事の渦中にしばしば「背番号28」を見かけることにも気がついた。

例えば。彼は史上最後のサスペンデッドゲームに登板している。87年5月23日、柏崎市営佐藤池野球場において行われた試合が「もうボールが見えない」と、午後5時44分、8回表一死を以って日没のため試合続行不能としてサスペンデッドゲームになった。

その際ロッテ側のピッチャーが園川で、再開した同年7月8日平和台球場のマウンドにも登っている。このことを書くにあたって当時の記事を探したところ、サスペンデッド決定時マウンドにいた井上のコメントはあったものの、園川のコメントは載っていなかった。記事にならないようなコメントだったのかも知れない。

そして、園川は今でも語り草となる88年のいわゆる“10.19”における運命の第2試合に先発している。7回2/3を投げ4失点で降板。

「優勝が決まる試合だろうが、そうでない試合だろうが、同じようにやってるんです」

「“ザマアミロ”って感じがありましたね。勝っても負けてもどうせ“憎まれ役 ”だってことは解ってましたから」

(『熱闘!プロ野球三十番勝負』「ナンバー」編 文春文庫ビジュアル版より抜粋)

こういうコメントに“園川らしさ”を感じてしまうと、自身の事ながらいよいよ病膏肓という気もした。

91年5月のこと。正確な日時がハッキリせず恐縮だが、秋田で近鉄のトレーバーに追いかけ回されたこともある。この時園川が投げたのは、死球ではなく内角の厳しい球であったようだが、それがトレーバーの何かを刺激したらしく、怒り心頭したトレーバーが猛烈な勢いで園川に向かっていった映像を今でもたまにTVの「プロ野球特番」などで眼にする。

この時、追いかけたトレーバーは当時のロッテ監督カネヤンに捕まり蹴りを食らった上、それを見ていなかった審判員によって退場となっている。当の園川本人は外野まで逃げており、無事だった。

シーズン安打200本目を放ち、2塁ベース上で大きく“200”と書かれたプレートを嬉しそうに掲げるイチローを、みなさんも新聞・雑誌・TVなどで一度は眼にされたことと思うが、この時マウンドにいたのが園川だった。

試合後のインタビューで「いや、別に僕1人で200本打たれたわけじゃないですし」と答え、周囲が唖然とした。一部園川フリークは大いに納得したものであったが。とは言え、この年園川は対イチローに18打数13安打、打率7割2分2厘とイチローの200本到達に大貢献している。

忘れてはならないことが一つある。園川は96年の開幕投手を勤めているのである。当時32歳にして、チーム最年長投手。前日のコメントには「普段通りやるだけ」というものがあった。「コーチから言われたときは最初何のことか分からなかった」というコメントもある。これらからとまどいや緊張を見てとる向きが大勢を占めているが、私にはいつものあの飄々とした姿が浮かんでならない。

この時は4回2/3で降板したものの、ロッテのシーズン初勝利に貢献している。セリーグ開幕前だったこともあって「勝ちに等しい貢献」と、一般各紙においてもスペースを割いて紹介された。

ただ、対戦相手ダイエーの王監督に試合前日「開幕投手には格って言うものがあるだろう」と激怒された。広岡ゼネラルマネージャーからも「私が相手監督でも怒りますよ」とまで言われてしまった。

それに対し園川は投げ終わったあとに「仕方がない。俺だってそう思う。開き直ってやったよ」と述べ、大きな目が無くなるほどの笑顔であったそうな。

この日にすべてを出し切ってしまったせいか、はたまた王監督の怒りか。因果関係はまったく不明であるが、彼はこの年1勝も挙げることはできなかった(0勝7敗)。

99年10月3日。千葉マリンスタジアムでのロッテ−ダイエー最終戦。この日、本拠地でのシーズン最終戦と言うことで園川の引退セレモニーが開かれることとなった。幸い日曜日と言うこともあって、私は球場に出かけることができた。

途中、優勝チームであるホークスへの日本シリーズ激励メッセージがオーロラビジョンに出るなど、何かと語り草の出るなか、9回表から園川は登板した。私は「もっと間近で見たい」という思いから、それまでいた内野自由席を立ち、内野A指定席へと移った。

先頭の浜名をショートゴロ。続く柳田をライトフライに打ち取り、3人目の柴原には粘られたものの、9球目見事空振り三振。

球場全体から割れんばかりの拍手が湧いた。私の少し後ろの席では妙齢の女性2人組が「園川さんがいなくなっちゃう〜」と、泣いていた。何か機先を制されたようで、私は泣く代わりに「おら〜、園川に最後の勝利をプレゼントしてやれよ〜」と叫んでみた。声がいささか湿っていたのは、まぁ、仕方ない。

残念ながら逆転することなく試合は終わり、ダイエーの選手がレフトスタンドに優勝の挨拶をした後、セレモニーが始まった。

引退の挨拶というものは古くは長島茂雄の「永久に不滅です」から新しくは大野豊の「背番号24に悔いはなし」まで。語りぐさとなる名言佳句を含むものだが、園川の挨拶はそうではなかった。

「千葉ロッテマリーンズのファンのみなさま、今まで私に勇気と力を与えて下さり、ありがとうございました。来年もチームに勇気と力を与えて下さい」

これが、全文だった。文字にしてしまえば、これだけのことであった。すべてを言葉以外の形で語り尽くしたという思いが園川をそうさせているのかも知れないなぁ、と思いながら、なぜか涙は止まらなかった。

ライトスタンドに掲げられた「THANK YOU 園川」の横断幕も、ぼんやりと霞んで見えた。

ロッテ選手による園川の胴上げの後、選手がグラウンドを1周した。園川が目の前を通った際、私も「ありがとう、そのかわー」と叫んでいた。

引退セレモニーが行われたこの日は、実はダラ球会の観戦会でもあり、試合後の懇親会でこんな話が出た。

「しかし、最後の試合まで敗戦処理っていうのが園川だよなぁ」

この発言をされた方はロッテファンである。思えば初登板も園川は敗戦処理だった。その後、後日行われた神戸の試合でも園川が登板していることを知り、2人で笑った。

園川一美  通算成績 376試合 76勝115敗2セーブ 防御率4.32 敗戦数はチーム歴代4位である。

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