ジャイアンツ「背番号7」物語

(千葉県・ふさ千明)

背番号7。ラッキーセブンと言うくらいだから縁起のいい数字に思える。しかし、巨人に限ってはそうでもなかった。歴代10人(1999年現在)について検証してみたい。

第1号筒井修遊撃手。彼は徴兵され、戦争で右手首から先を失い選手生命を断たれた。その後義手を着け審判として再起した。

第2号山川喜作遊撃手は7をつけてから4年間がんばったのだが、同じ遊撃手の平井三郎が入ってきた途端広島にトレードされた。

第3号は与那嶺要中堅手。アメフト仕込みの激しい走塁で巨人在籍10年。首位打者3回、MVP1回。通算3割1分5厘とあの川上哲治より2厘も上。 

なのだが、その川上が監督になった途端中日にトレードされる。よほど無念だったようで、移籍後の巨人−中日1回戦でホームランを打った際、巨人ベンチめがけて「見たかっ、テツっ、見たかっ、テツっ」と叫びながらベースを一周したという。これには巨人側応援席からも拍手が湧いた。

入れ違いに7をつけた高林恒夫左翼手。社会人時代熊谷組で4番を打ち、都市対抗のMVPとも言うべき橋戸賞を獲得。「高林が来たから与那嶺は不用」と川上監督に言わしめたほどだったが、2年いただけで国鉄にトレードされる。理由はいかにも巨人らしい。長島・王が本塁打を一本も打てない北川芳男投手を獲得するためだという。

そして第5号大橋勲。慶應出身の大型捕手として将来を嘱望されていたが、『皆殺しの森』と言われた森昌彦捕手を抜けないまま大洋へトレード。

交換されてきた桑田武三塁手が7をつけたが、桑田は1年間で試合数13、安打ゼロ。一年で姿を消す。

続いて柴田勲中堅手が12から7へとつけかえた。第7号というのがよかったのか、赤い手袋を代名詞に活躍。盗塁王・ベストナイン等のタイトルを獲得し、ONを従えての4番も経験。2000本安打も記録した。ただ、引退後の賭博問題などで、現在は球界との縁はほぼ切れている。

第8号はレジー・スミス。フロントから「原辰徳より活躍しなくていい」などという愚にもつかない注文を受ける。それでも相応の活躍をしたが、ラストイヤーは年齢から肩が衰え、ランナーのオーバーランを許すことしばしば。大リーガーのプライドを踏みにじられて引退、帰国。

そして吉村禎章左翼手。左の大砲として将来を嘱望されて入団。7の前は55をつけており、50の駒田徳広、54の槙原寛己と共に50番トリオとして売り出した。7をつけてからは3割30本クラスの選手として活躍をはじめた。

その矢先。札幌円山球場での栄村中堅手との激突で靭帯断裂。選手生命どころか歩行すら危ういという状態から奇跡の復活を果たすも、往年の活躍には遠く及ばず。ただ一つ挙げるとすれば1990年。優勝を決めるサヨナラ本塁打を放ったのが記憶に残る。

そして現在。巨人軍10人目の背番号7を二岡智宏遊撃手がつけた。オールスター前までの時点では、美事なまでの活躍ぶりだが、果たして7の不吉は彼の身にも降り懸かるのであろうか。

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