『キミは長島を見たか』 

(岩川 隆・著/集英社文庫)

(千葉県・ふさ千明)

私は<長島茂雄>を見ていない。嘘ではない。<長嶋茂雄>ならば見てはいるが。つまり、現役時代及びそれに続く第一次監督時代を知らない。

無論、知識はある。例えば天覧試合サヨナラホーマー。例えばデビュー戦4打席4三振。一茂を球場に忘れてきたとか、全裸で素振りをしたとか。多くの本が出版され数々の番組が組まれ、公私両面にわたってさまざまな情報が世に満ち溢れている。しかしそれを霞ませてしまうほどに長島と言う存在が大きいということを、また知識で仕入れていた。

その私が本作で手に入れたものは、知識ではなく実感なのだ。著者の筆法からにじむ長島という存在への思いが、その存在の大きさを私に感じさせてくれた。『野球界の長島』という存在を失う事への痛み。苦しみ。怒り。もだえ。肉親を失ってもこうまでなるかと思うほどの強さ。大きさ。

その時の私の悦びがわかっていただけるだろうか。徳光和雄が万言を費やすよりもより強く伝わってくる実感。それは単なる知識を飛び越え私のうちから湧き出た感情だった。

歴史の人物に感情移入するのに近いが、それとのわずかにして貴重な違いは実際の現在の長嶋茂雄と言う人物を見て納得することができると言うことだ。なるほど確かにあの人ならばありうべき事だ、という誰の手も借りぬまっさらな実感が生まれ、疑似体験を補完する。

半生記とも言うべき伝記部分に関しては、この本以外でも充分に語られ尽くしたはずなのに、まだ未知の部分があったことにまず驚かされる。そしてそのあまりの首尾一貫に失礼ながら笑いがこぼれたりもする。

高校時代から自己流英語を使ったり、まわりが驚くほど物怖じしなかったり。ランナー1,2塁で1塁ランナーが2塁に盗塁のサインを出し、勝手に走り出したエピソードなどはもう笑うしかなかった。2塁ランナーに止められても、「いや、行くんだ走るんだ」と眼をランランに輝かせて追い返したそうだが、そんな人間は寡聞にしてこの人しか知らない。

どうしたら長嶋さんみたいな人間が育つのだろう、と一度ならず思ったことがあるが、納得した。なるべくしてなる、とはこういう事なのかと思ったりもした。

少し本題から離れた話をさせていただこう。

江戸時代初期、薩摩藩では関ヶ原の戦い経験者が子供達にその体験を語った。徳川への恨みを忘れぬための措置らしい。苦難の記憶に感極まって涙するばかりの老人を見て子供らは大きな感動を得て帰ったという。事実を並べることのみが語ることではない。語り方によっては無言が雄弁を凌駕する。

本作において著者は最も言いたいことを言ってはいないように思える。それは言わずもがなであるからであると同時に言わぬ事でかえって何よりも強く読者に刻みたかったからではないかと思うのである。

書かれた時代が時代であるから、無論知っている者へ語りかけているのだが、知らぬ私が読むとまるで「忘れないでくれ、知っていてくれ、こんな男がいたんだ。居たんだ」と叫ばれているようでもある。

それは時に突き通るようですらある。こんなに凄かったんだ、と、まるで声を涸らし喉を痛めて叫ぶかのように、ただそれだけを言いたいかのように描かれていく長島像。まるで長島茂雄を称えることが自己表現であるかのように。

当時を知る者にはなつかしさを、知らぬ者にはそのよすがを与えてくれる本作が絶版だと言うのは、実に惜しい事である。古本屋を巡る価値のある一冊であることを僭越ながら保証したい。

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